毎年、必ずといって良い程、死者が出るのに高山病になってでも富士山に登る人達は何故なのだろう。
そもそも何故富士山はあんなに好かれているのだろうか。
そんなことを先日両親達との会食時に話したことがきっかけで書いてみるとする。
母達は頂上まで登ったそうだ。そして、登山中に苦労した話を聞いた。そして頂上から下界を見下ろして景色が素晴らしかったという。苦労して登った先に達成感があり、「富士山に登った」という経験を、他人に語ることだ出来る。
...っていうなら理屈として分かりやすいので「そんな感じ?」と聞くと「そうではない。」と言う。
母達は頂上まで登ったそうだ。そして、登山中に苦労した話を聞いた。そして頂上から下界を見下ろして景色が素晴らしかったという。苦労して登った先に達成感があり、「富士山に登った」という経験を、他人に語ることだ出来る。
...っていうなら理屈として分かりやすいので「そんな感じ?」と聞くと「そうではない。」と言う。
というか、そもそも富士山は崇拝すらされている気もする。これはアニミズムと違うだろうか。
「山頂から見下ろす景色がキレイ」と言っても富士山から見下ろす景色は下界の景色であって富士山ではない。ガガーリンが宇宙から見て「地球は青かった」と言ったことと同じである。「宇宙は凄かった」とは言わない訳だ。元から離れると元の凄さを再認識するという話である。だから、それでは富士山だから凄いという理由としては決定的ではない感じがする。
次に、「形が美しいから。」というのがある。
これも分かりやすい。あの雪が積もった景色は「THE 日本」という感じもする。
富士山という漢字も今のように書かれる前は二つとないという意味で不二山と書かれていたとか調べたら出て来た。けど、二つとないのは自然というものは全部そうなである。
これも分かりやすい。あの雪が積もった景色は「THE 日本」という感じもする。
富士山という漢字も今のように書かれる前は二つとないという意味で不二山と書かれていたとか調べたら出て来た。けど、二つとないのは自然というものは全部そうなである。
活火山である富士山は噴火して、いつなくなるかも分からないからとかいう儚さを憂う感じなのだろうか。太陽が東から登って西に沈むことだって、50億年の歴史があり、地球に生物の多様性があり現在のような文明を持つまでだって相当な歴史がある。
だから、わざわざ出来てから僅か8万年しか経っていない富士山を拝まなくたって、日常の全てに感謝すれば良いのだろうし、夜空を見上げればアンドロメダ星雲が230万年前の光を運んでくれている奇跡にも簡単に出会うことが出来る。
だから、わざわざ出来てから僅か8万年しか経っていない富士山を拝まなくたって、日常の全てに感謝すれば良いのだろうし、夜空を見上げればアンドロメダ星雲が230万年前の光を運んでくれている奇跡にも簡単に出会うことが出来る。
単純に好きじゃダメ?と言われれば否定しないが、何故か見ているだけで拝んだりしたくなるとか、若いうちは分からないとか言われると考えてしまう訳だ。
私の感想は日本人の「象徴やシンボルが好きなのでは」ということである。天皇をありがたがって拝む人も同様な気がするのだけど、どうだろうか。
そういった概念的な何かである気がしてならない。