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ジレンマを抱えて生きる - 他者への想像力の可能性

土曜日, 3月 01, 2014
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「人間とはジレンマを抱える生きもの」

2月はそのようなことをつらつら考える月となった。今までもある程度分かってはいたものの、世界は矛盾することなくスッキリした方が良いし様々なものに疑問を持ってはスッキリする為に知識を蓄え、調べていく作業が日課な僕にとっていささか驚くべき結論に至ったのは、年をとったのか、頭の回転が遅くなったのか、単に今の気分なのかは分からない。しかし、今月起きた様々な出来事や体験の中によりクッキリしてくる感覚が自分の中に見つかることも間違いない事実なのである。

もちろん世間は話題が事欠かなかった。STAP割烹着報道問題、NHK新会長の従軍慰安婦についての失言問題、佐村河内守氏の偽ベートーベン問題、安倍首相の天ぷら問題に続いて、靖国参拝称賛で米国に対して「むしろわれわれのほうが失望だ」と発言問題と女子フィギュアスケート日本代表の浅田真央選手に「あの子、大事なときには必ず転ぶ」 問題などなど。
特にソチオリンピック前に選手に「メダル噛むな」など色々発言した竹田恒泰氏や森元首相、NHKの経営委員の百田尚樹氏や長谷川三千子氏なんかは未だに話題に上がるほどである。

それらを踏まえて、個別の案件に触れるよりも定性的な感想を残しておきたい。
最初に言っておくと、これらの問題を引っくるめると、「日本人とはどうあるべきか」というものに還元できると思う。そこには日本人に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」というステレオタイプな人間論が根付いている気がする。
これ自体が必ずしも悪いものと決めつけることは出来ない。事実、東日本大震災で大惨事にも関わらず配給の列に並ぶ日本人に世界は感動した話などもあり、日本人自身が誇りに思うこともまた確かなのであろう。だから、これらに対して感情論で反論しても意味を成さない。

しかし、この美意識とも呼ばれるものを全ての人間に当てはめようとすると途端に息苦しくなる。普段から空気を読むことに慣れている日本人にとって、この強制力とでも言うべき同調性圧力に気付き違和感を感じることが出来る人は少ないのかもしれない。

ここで話を戻すと、冒頭で触れたように人間は狂気とも呼ぶべき矛盾を抱えた存在である。
そして、その狂気達が世界の在り方を変えてきたし、生き方を変えてきたし、変えていくのも事実なのである。戦争と奴隷、宗教と医療、コンピューターやあらゆるテクノロジー、スポーツやオーケストラ、ジャズ、ロックだってそうだ。その他の文明、文化的営みの細部を調べていくと狂気が宿っていることが分かる。欲望と目標、夢と社会的意義、諸々が絡みあって世界を形成している。

少し言ってしまうと、百田尚樹氏の「永遠のゼロ」にもオリンピック選手に対する「こうあるべき」というのもジレンマに対する視点が欠けているように思ってしまうのだ。

これは自省だけど、最初に観たときに見落としていた点で映画版では宮部久蔵がラストシーンでゼロ戦で敵に突っ込んでいく(自爆)時にうっすらと笑顔になるんだけど、そこにはあれだけ戦死に反対していた宮部久蔵がジレンマを抱えて死んでいく様子が描かれているし、オリンピックで選手が競技後の感想で楽しかったと言うのがダメという人にはそういったものを超越して思わず口をつくことの心理にしかり、戦争の時に慰安婦がなぜ存在したのかみたいな話もまるで理解出来ないんではないだろうかと思ってしまうわけだ。

これらの他者への想像力の可能性は日中韓で高まる緊張感の処方箋でもあり、人間が上手く折り合いをつけてやっていく為にはどうすれば良いのか示す内容でもあり本エントリーで取り上げた次第である。

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