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2015年。インターネットから考える。

木曜日, 1月 01, 2015

あけましておめでとうございます。
っという訳で2015年になりました。元旦は深夜から朝まで友人たちといたので今頃頭がすっきりしてきた感じです。
今年で2010年台も中盤。
Windows95が発売され市民一般にインターネットが普及し始めてから今年で20年を経とうとしています。そこでインターネットの社会的変遷と前提をさらっと踏まえてみます。細部は完全無視!

人間はインターネットという善悪の知恵の樹になる禁断の果実を食べたが最後、元に戻ることは出来ません。これはインターネットというよりも情報と言い換えることもできます。インターネットというその広大な情報を繋ぐプラットフォームは当時の人々が無限の可能性を感じるには十分でした。知ってしまったことを知らないふりして生きることは出来ない。これは中東や去年では香港で起きている社会変化にも繋がりインターネットなくしては語ることが出来ません。情報がフラット化して流れていく時代に置いて人々の価値感の転換は大いに起こり得るし、個人レベルでも禁断の果実とまでは言わなくとも、人と出会ったり話してりする中で価値感が変わるというのは容易にあります。
それはさておき、インターネット創世記からブログによる個人の情報発信によるWEB2.0を経て、TwitterやFacebookを始めSNSの普及で知識が集まり(集合知)それらにより人々は啓蒙され合理的に判断するようになり理想の社会が実現できる云々という話が随分語られてきました。個人的には性善説というか、この手の話自体は嫌いではありません。
しかし、それらの話に抜け落ちている視点がある。それは合理性と同じように人間は今まで生きてきた過去を無視することもまた出来ないということです。役に立つか立たないかという価値観のみで生きている人はいません。歴史は先入観という価値観で積み重なり、先入観は重ねれば重ねるほど後から視点を変更するのが難しくなります。認知バイアスというやつです。
そこで社会学者のイーライ・パリサーは簡単に言うと「結局インターネットは過去に重ねてきたことを再強化する役目しか果たしていないのではないのか、それは本来想像していた誰にでも開かれているという理想とは違い閉じているのではないのか」という問題提起した。
10年代からはそういった理想とは違ったインターネット生態系の実態が語られるようになったんですね。そしてそれは今のところその通りでもある。
しかし、それを乗り越えてもう一度多様性を持ちかつ開かれていることを追求することは不可能なんだろうか。もし可能ならどのようなやり方があるんだろうか。10年代後半はその辺に議論が集約していくはずなので、いろいろ考えてその都度ここに書き足していくことにします。

そんなこともしつつ、まったく関係のないことも投稿したいです。そう言えば知恵の樹になっていた実はイチヂクなのか、りんごなのか。いずれにせよ食べると元に戻ることは出来ないのです。

本年もよろしくお願いします。
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