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トリビアルな世界と対峙する

火曜日, 6月 07, 2016
トリビアルという言葉がある。

Wikipediaでは
数学において、形容詞自明な (trivial) 対象(例えば位相空間)であって非常に単純な構造を持つものに対して頻繁に使われる。”

あからさまな釣りに大衆が群がることもそれと同じである。これは今、文化や社会まで含めて、世界中で起きてる単純化現象と同じである。

なんともつまらない状況だがこの考え方が世界の趨勢になりつつあるのだ。

単純化の何がわるいのか。この問題を思考すると行き着くのはポルノである。ある対象に対して何も考えずに反応だけしてしまうということは、本質的にポルノに反応することと同じだ。もしポルノのようなものが全てならば、今後世界には文化が生まれてくることはない。

卵は生でごはんにかけて食べるのが一番美味いという人達しかいなかったら、豊富な卵料理のバリエーションは生まれていない。つまり裏返せば貧しい世界になる。つまりは多様性の欠如である。

少々大げさだと思うだろうか。

しかし、アメリカ大統領選では筆頭候補だったヒラリークリントンよりも排外主義的、差別的な発言で有名なトリックスター、ドナルド・トランプ氏が優勢との見方も複数の報道から既に出回ってきている。ぼくは、端的にアメリカが普通の国に成り下がるのを悲しく思う。

今、二つの選択肢がぼくたちの前にせまってきている。
それは「単純で貧しい世界」と「難しくも豊かな世界」。人間はそれぞれ違った価値観を持ち分かり合えないという本質に対し、分かり合えない人たちは違う国に住めばいいのだという前者と、それぞれの力を発揮することでより強固な基盤が出来上がるというある意味で理想論的な後者。

世界は常に理想を追ってきた。しかし、その余裕すらもはやないということなのかもしれない。もともと世界は分断されていたが世界中の人が同じような物を持ち、同じような服を着るような時代になり、その構造が覆い隠されていただけなのかもしれない。

ぼくたちはほんの数十年の間に、何か平和ボケし、勘違いすることで現実を生きてきたのかもしれない。残念なことだが、しばらくはトリビアルなものが世界の趨勢だろう。だんだんと世界のマジョリティが持つ可能性に興味を持てなくなってきた。

しかし、そこに見いだすのは、そのことに気付いている人たちとの連帯である。どうやら、こういった連帯は短い期間で形成されるものではなさそうだ。まずは個のあり方からクリアにしていきたい。

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