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「知る」と「信じる」

月曜日, 1月 28, 2013
このBlogのタイトルはWeblog3Dである。意味は紹介欄で述べている通り。
Dum docent discunt. 物事を様々な角度から捉えようと試みてはいるものの、実は失敗している可能性もある...ということすら記録出来たらいいなと思い始めたブログ。 このブログが誰かに何かを伝えることを祈って。


このBlogの意義は私にとってはただの「記録」であり「楽譜」であり「遊び」でしかない。Dum Docent Discunt はドゥム.ドケント.ディスクントと読むラテン語の格言で直訳すると彼らは教えている間学んでいるである。

その頭文字のアルファベットの3つのDで3Dである。
それと立体的な視点とかを掛けていたりもする。
それはさておき、昨日夜ベッドで世界宗教の違いとか調べていて考えたことも含め、駄文を承知で書いてみる。

自分は〜を信じている。

私はある程度考えがまとまると、「〜は〜だ。」と言い切る。人と話す時はこの方が盛り上がる。しかし言い切る内容に関しては自分なりに調べる途中でぶつかった疑問を更に調べてから言っているのでそれなりに自信がある。

自分は〜を信じている。

しかし物事には理屈通りにはいかないし、そもそも答え自体が人によって違うことも多い。それを実証する自然科学という分野もあるけれど、基本的に答えは一つじゃないというのがデフォルトだろうと思う。この項なりに言うと「答えは一つじゃないのが基本だと信じる」人は知っているのではなく信じているのだ。これは自分の知っていると思っていることはそれを信じているだけで知っているなどと偉そうに言ってはならないという「実るほど頭を垂れる稲穂かな」状態になる。 そもそも知っているというのも間違っているという意見がある。しかし上記を引っ括めてそれらに私は疑問を呈したい。
例.
「私はこのアイデアを良いと信じる」
「そうですね貴方はそのアイデアを良いと信じるのですね。」という会話は互いに納得しあうだけになるのではと感ずる。妥協した相互理解という奴だ。
何故なら「何故なら信じているから」という言葉で全て決着がつくからだ。

例.

「私はこのアイデアを良いと知っている」
「それは何故?」
「何故ならこのアイデアは云々...」
「じゃあこのアイデアはどう?」
「あぁそのアイデアの方も良いな。」


の方が良い方向に向かっていく気が僕はするのである。
「それは何故?」と聞かれることに慣れていない人は意外に多いのかもしれない。
僕が色々な人と話したりする中でも、それ程、自身の意見に論理体系が出来ていないという人も多い。マスコミの受け売りというか。
勿論、納得いかなけりゃ自分の意見を貫き通したって良い。
自分が何故この意見なのかを「知る」為には、何かに対してアクションを起こす以外ない。
その池に投げ込む石は多様性があり、尖ったり変な形をしている程、個性的な形の水面を描くのかもしれない。
知っていることを否定されてもなお、それを乗り越えて新たな知を得る方が面白い。
その新たな知すらも本当の意味で「知っていない」のだとしても。

別に何かを(例えば宗教とか)信じている人を否定している訳ではなく自分はどうありたいかというだけです。


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