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二〇一三年に残った感覚

金曜日, 12月 27, 2013
昨日は、友人たちとの忘年会だった。友人たちとは生まれも育ちも学校も働いている場所も違う。それを繋いでいるのはLINEやFacebookなどのSNSである。
普通の生活には関係がない集まりなので、なんのしがらみもなく、酒を飲みながら社会情勢について真剣に話すこともあればくだらない話もタブーなしの本音で話している。
この集まりを定期的に始めてから今月で丸二年が経過した。当時は自分の意見は特に言わなかった友人もバンバン言ってくるようになったりして面白い。と同時に自分の感覚を理解してもらえていないなということも感じるようになった。これは友人達の感覚が鈍いとかそういう問題ではなく、ぼく個人の問題だと思う。もちろん感覚が近い人もいてその人達はどちらかというと物理的には遠くにいる。インターネットがそういった問題は解決してくれている。それは前から分かっていた。けれど、その普段分けているものを無意識にリアル空間に持ってきてしまうと、自分の性質は時に全くといっていいほど理解されないこともある。
しかし、「理解しあえないことを理解する。」という相手を認めたうえで距離をとるドライでちょっと風通しの良いやり方が差別や諸問題の解決策であることは自分がすでに出している答えでこの答えと自分の感覚を理解させたいというぼくの欲求はある程度ぶつかる。自分が出している答えと自分の感覚がズレてしまう。「そのズレてしまう所に自分が存在する」という哲学的な言葉遊びはさておき、これに繋がるエピソードを2013年に残った感覚として書き残しておこう。
10月に神戸ビエンナーレを訪れた。2年に一度おこなわれるアートの祭典である。
多種多様な作品があり、障害者のアートやその他のアートを見て楽しい作品に笑うこともあれば奇想天外なもの、深く考えさせられるものまであり、実に色々な感想をもったけど一番深く感じたことは「作ってるとき孤独なんだろうな、そしてすごく自由だな」と思ったことだ。
孤独が生み出した自由な作品を人は観て笑ったり、考えたりする。それはとても素晴らしいことで、「そうか!」と腑に落ちた。アートやテキストの力というのはこういうことなのか、と。この感覚は単なるフロー化されたものに触れるよりもある時点でシメているものの方が良い。本やアート作品は基本的にはシメたものである。その時間を超越したものに触れ思考を巡らすことはいつになっても必要なものなのではないか、と思った非常に良い旅だった。

孤独だからこそ自由にも生きられる。理解されないこともあるが恐れる必要はないのだ。
この感覚を忘れないようにしたい。

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