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幸せであるために

水曜日, 6月 05, 2013
久々に読むと懐かしい。

SMU 第176号「魔法使いに三つのお願い」(板倉雄一郎事務所)

魔法使いに3つお願いするとしたら何を頼む?というものだ。
これは当時のぼくがロジカルシンキングを考え得るきっかけになった問いでもある。

この板倉雄一郎さんのブログを読んでいたのはlivedoor関連で日本中が賑わっていた2005年のこと。
ぼくに音楽以外の知識欲が出て来たのはこの前後ぐらいだろうと思う。
休日の前の日は朝まで色々なブログを読んで、それでも足りなくなって何年振りかに図書館に本を借りに行ったりしたのも2004年〜2005年からである。

閑話休題。

それはさておき、人よりも相対的なもの求める為に、絶対的な何かを手に入れようとする人がいる。
これは矛盾だ。
「幸せになりたい。」ことの手段として「お金持ちになりたい」「お金持ちと結婚したい」という人が、現金を1000万を急に手にしたり、今現在、年収3000万の人と結婚したとしても、その人の「幸せになりたい」という願望は叶わない。
いや一瞬は叶うと言うべきか。そして一部では叶うケースもある。
しかし、その叶う一部は「宝くじは買わなきゃ当たらない」という論理と同じでギャンブルである。
何故叶わないのかというと、それを維持するか失うことしか出来ないからだ。
維持と損失におびえる中に喜びを覚える人は稀だろう。
しかしそもそも、「幸せになりたい」という願望そのものが実にあやふやで相対的で実に厄介なものだからなのだ。
自分の人生は今、お金に関係ないから少しでも関係を持ちたいと思うのかもしれない。
しかし、それは違う。
自分はお金という手段や評価、若しくは周りの環境にグルグル巻きにされて身動きの取れない状態なのだ。執着しすぎているのだ。
「幸せになりたい」いう願望はそれらの相対的な自己評価なのである。

自己評価、つまり自分。

じゃあ自らを他と分けると書く自分というものは一体何だろう。
身体か。脳か。意識か。心か。魂か。自我か。或はその全てか。
だから自らを他と分ける存在の中で、絶対的な「他」から「幸せ」という概念が得られるはずはない。
では、自由や幸せは何処にある?それはそれを追い求める自らの過程の中にあるのだ、とぼくは考える。
自由は、自らを由とすると書くが、由を言い換えると、自らを手段や方法にするという意味になる。
だから、自らが「幸せになる」為には、結果的にも態度にも「幸せにある」必要があるのだ。
幸せになる過程の中にしか、幸せはない。即ち自らの中に幸せはある。

冒頭のブログの答えは、

僕は3つもお願いすることが無いから、1つだけでいいです。僕を、魔法使いにしてください。
となる。
だから、幸せになる為に一緒にいようとする人を選ぶ時は、すぐに幸せになれる人よりもいつか幸せになりそうな人の方が相対的な幸せの答えとしては正しい。若しくは、いつか自分が幸せに出来そうな人だろう。その過程以外に相対的な幸せは訪れない。

でも、よくよく考えてみると人と比べて優劣を競う相対的な幸せを血眼になって探すのも疲れるだろう。本当は幸せはごろごろ転がってるのかもしれない。感性を養うことの方が重要である。

「幸せ」はすぐそこにあるのだ。
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